うんこをする咎人と、私の奮闘記
私の我慢ならない事が1つある。
明日にでも誰しも経験しうるこの現象は、疑いようもなくどうしようもない人の我欲のみによって生まれる、極めて悪辣極まりない、
要するに
この上なく
非人道的な
悪魔的現象なのである。
誰でも尿意、改め便意というものは感じるものだとは思うが、特にそれを致す場所はそれにおいて1、2を争うほどに重要な要素であることは今更言うまでもない。
1番良いのは実家のトイレだ。生まれた頃より長く使い続けた便器ほど心休まるものはない。
よく枕が変わると寝れないというが、便器はそれの上位概念として存在する。
枕は一生のうちに3、4回は変わりうるだろうが実家の便器というものはそうそう変わるまい。場合によっては親や孫など世代を超えて引き継がれるものもままある。
便器とはその存在が家に伴った時点で、概念的に1人以上の人間の人生の半分と深く繋がる、狭くも暖かい空間なのだ。
次にいいのは人通りの少ない場所にあるトイレだ。
人前で糞便を躊躇わず垂れ流すような豪放磊落な人物でない限り2番目にこれを選択するに違いない。
不思議なことに排便というものは、この世に存在するおおよそ生物と呼ばれるもの全てが日常的におこなう生理現象でありながら、それを是とする人間の方が少数だからだ。
人前で放つことは恥とされ、出来るだけ静かに、無臭で行うほど良しとされる。
しかしそんな日々のささやかな庶幾すらも、無慈悲に奪われてしまう時がある。
外。その中でも建物の内部。
特にデパートやそれに類するものだとそれが顕著に起こる。
便器の大量不当占拠である。
悪と認識されにくいこの大悪こそが、私の許せないものの一つだ。
ある時私が不慮の腹痛に見舞われ、その痛みを排除すべく一縷の望みをかけて、諸悪の根源たる汚物を我が体内から吐き出そうとした。
がしかし、星の数ほどある便器の扉の、そのほとんどが扉を閉め、まるであかんべえをするように赤い色をこちらに向けているではないか。
まあそれだけならば運が悪い、私と同じように体調の優れない人間が複数いたのだろうと済まし、他のトイレを
探すのもやぶさかでない。
もし本当にそうならば、だ。
が、その空間にはある決定的な物が欠けていた。
そう、排便音である。
人間が排便するにあたって必要不可欠なものは力みと嗚咽だ。
力み無くして排便のカタルシスは無に等しく、嗚咽なくして力みは有り得まい。
しかしそこは人間十人十色、音量の多寡に力みの強さ、人それぞれであって当たり前だ。たまたま不当占拠のメンバーが、全員寡黙な人々で覆われた、ということもあり得るのではないか?
なるほどありえない話ではない。
蚊の煩わしくか細い羽音すら、明瞭に聞こえてしまうような場合を除いては。
便意がありながら芭蕉の読む池の如く森閑としたトイレがあってたまるか。
もしあるならばそれは如来や仏陀の集まるトイレだ。いや如来とかもうんこする時くらいは音出すだろ。
とにかく人間たるもの音無くして生きることは有り得ないと断言してもいい。
生きるという大いなる車輪に行為として組み込まれている、排出という人間の生理現象の領域。それが無音であるならば答えは一つしかあるまい。
そう、排便以外の行動を行っている、という訳だ。
昨今の携帯電話の発展というのは目覚しい。まさに光のような速度で日毎に進化していく。3年も前の媒体を使っていてはもはや化石と言われるような時代だ。
だがそのせいで人は籠ることを、篭っていても楽しめる世界の創造を覚えてしまった。
無論、トイレの中でさえ。
彼らは、トイレを不当占拠する不届き者共は、あろうことか、排便をするための設備の上に座りながら携帯を触るのである。
驚くべきその不確かな実態は、ある時私がトイレに行った時、不意にトイレに鳴り響いた通知音で可視化(可聴化)された。
私は怒りに震えた。正確に言うならば今にも出てきそうなうんこを抑えていたら体がブルブルっと痙攣しただけだが、憤懣やる方なき感情の奔流の行く先を求めた。
私は…そう、私は、いくら便器を人間がぞんざいに扱っていようと、口を出すことは出来ない。
彼らはただ便秘に苦しんでいる可能性もあるのだ。
便器への正当な引きこもりなのかもしれないのだ。
しかしそんな話をしたらこの世のあらゆる万事万物を正当化できることになる。
しかし実際そうなのだ、故に、何も出来ない。
私は静かに待つことにした。
…
…
あれから
何年経っただろうか…
なんとか…
トイレの個室は開き…
私は…
トイレに入ることが…
出来た…。
ところで、
私には幼少期からの悩みが1つある。
あれは忘れもしない小学3年の頃。
友達とゲームの真似をして遊んでいたさなか、便意が私の腹と肛門を抉るように襲った。
『先に行っといて。トイレ行ってくるわ。』
着いてこないでくれ!そう切実な願いを暗に込めながらそそくさと向かう。
彼らは私の言葉を聞いて、そしてそのまま着いてくることは無かった。そこまでは良かった。
恐るべきことに、その時に限り排便の勢いが皆無に等しく、諸悪の根源は頭を少し出しただけで、異物感と倦怠感だけを取り残して私の肛門括約筋は沈黙した。
うんこがなかなか出ないのだ。
私は焦った。
何故だ。便意は未だここに居る。なのに何故出ないのか。ネット社会はまさか、我らが便にまで広がっているのか。引きこもり問題が頭をよぎる。この我が便はおそらく齢30をとうに過ぎている。一向に出てこない彼はもう社会的責任は自分に存在しないと思い込んでいるに違いない。
なんてことを考えている間にタイムリミットが来た。
そうだ。子供の時間は有限なのだ。それを度外視しては行けなかった。子供は朝に起き、夕方に帰り、夜に寝る生き物なのだ。昼には学校に行くため、遊ぶ時間は自動的に限られる、刻限が決まっているならそれを限界まで遊びたいと願うのは当然であるだろう。
故に、彼らは急かしに来るのだ。今、我が苦慮の根源たる物体は頭だけが世に出ている、大器だとてまだ未熟な状態、即ちこの状況の発生にいささかの疑念を持つにも値しない。
だが、そんな心配とは関係なく、一番手が唐突に放った言葉は、私の予想だにしない言葉であった。
『うわっ、こいつのうんこ、くっせ!』
やけに、天井に、壁に、空に、そして私に、響いた。
うんことは、
うんことは。
人によってその悪臭に差はあれど、瑣末なものだと思っていた。
誰しもの腹から出づる物体の異臭は、大同小異であろうと思っていた。
その感覚とも言うべき実感は、物の見事に打ち砕かれたのだ。
その時に初めて私は私のうんこが臭いものだと知った。
衝撃だった。
私はこれからの人生、この汚点とも言うべき汚物と共に生きなければならないのか、という悲しみが両目からひたりと零れた。
間もなく友人はトイレを出た。
子供は純粋なものだ。
汚物からは離れる、それだけの事だ。
その時の事がありありと思い出される、実家のトイレ以外での排便という行為。
以前の私ならば、しばし躊躇い、しかしその魅力的な排便欲求からは逃れられず、数分の紆余曲折を伴いつつも致したであろう。
だが。
今の私は違う。
全くの逆だ。
我が醜悪地獄の激臭糞便をもって、公共の施設を我欲により不当占拠する、公共の利益に仇なす社会の怨敵を今すぐ追い出すべく、表情朗らかにズボンを脱いだ。
自信満々の笑みでクソをひり出す私の痴態は、私を無性に愛してくれた祖父でさえも気を悪くしただろう。すまない。じいちゃん。俺は俺で俺の正義を成さねばならぬ。この悪の蔓延る世界で、相手の土俵にたって勧善懲悪を行わねばならぬ。許してくれ。
そうして2、3ほど塊が零れた。
すると驚くべきことに、隣から水洗便所の流れる美しき音が聞こえた。
偶然という話も有り得るが、きっと私の悪しき臭いが届き、またそれに耐えられずトイレから出ることを決心したのだろう。
やった!私の勝ちだ!スマホに支配された若者の呪縛を解き、私の悪臭で空気を満たしたのだ!神罰覿面!天罰覿面!まさに有頂天。
それに続き、向かいのトイレからも小川の流れの如き調べが。音楽家のバッハという名前は、ドイツ語で小川という意味らしい。かつてベートーヴェンはそれに対し、「小川と言うよりは大海だ」と語ったそうだが、ならば私もあえて語ろう。
まるで大海の大波の歓迎を受けるかのような、しかし歓喜に満ち溢れたその水流を!
その大波の慈愛に満ちた聖母の涙のようにとめどなく、そして無制限に、なんと心地よく押し寄せてくることか!
すっかり満足した私も用を足し終わり、不意に上を見た。
突如、狭いな。という違和感を抱いた。
トイレの個室に置いて、「狭い」という感想は抱いたことは無い。何故なら個室には入る前から既に狭い。一目瞭然だ。山椒に対して粒が小さいなとは考えまい。
だが、そのトイレは確かに狭いのだ。
そんなはずは無い、そんなふうに感じたことは無いのだから。が、やはり狭い。という違和感。その理由。
それは視線をあげた先にあった。
そこには、壁があった。
最初から、このトイレはほとんど閉鎖されていたのだ。
小学生時のような上からのぞき込めるのうなオープンな物ではなく、最低限の隙間がほんの少しだけ空いた、むしろ牢獄のような、まさに箱であった。
ならば。
ならば、私の匂いは、私にしか届いていなかった。
本当に偶然に、私が排便したタイミングで、丁度彼らは行為を終えただけだったのだ。
私が勧善懲悪をなしたと思い込んだ時、誰も私の匂いに意識を移してすら居なかったのだ。
私は私の頭の中だけで、周辺の人を妄想で巻き込みつつ、一人芝居を打っていた下らない道化であったのだ。
所詮私は、世界のほんの一部ですら、正すことの出来ない蟻であったのだ。
先日私が何の気なしに足で軽く踏み潰した、ただの一、黒蟻と変わらない脆弱で矮小な生命であったのだ。
私の座っていた便所が音を立てて汚物を流す。私の虚無の頭に、その音がやけに騒がしく響いた。
羨望と苦悩の紙一重
この世の全ては僕を苦しめるために存在している。僕がFGOを通して学んだことだ。
それはすなわち思い通りにならないこの世界そのものなのかもしれない。
かつてテレビで僧正が住職にとあることを尋ねていた。
「あなたは悟りの域へ達していると耳にしました。あなたはあなた自身を思い通りにすることが出来ますか」
と。
僕もまた
「まあ悟ると言われるくらいならばそのようなことは出来て然るべきなのだろう」
と思ってしまった。
尋ねられた住職は当たり前のように答えた。
「完璧に思い通りにすることは私にはできません。もっと悟りを開いた人ならできるかもしれませんが。」
僕は宗教観そのものを疑った。すると住職はそのまま
「世界も自分も、自分の思い通りになった方が恐ろしいでしょう。」
と続けた。それを聞いてハッとした。
確かにそうだ。その通りなんだ。自分に意識があるといって、それが絶対に思い通りになるという保証になるわけが無い。
逆になぜ我々はいつも「思い通りになる世界」を念頭に置いて物事を考えるのだろう。
叶わないと知ってることでもそれを第一に考えたがる。思ってみればひどく非現実的であまりにも理想的だ。
とはいえ、すぐにそんな非現実を排する考えが出来るならば苦労はない。
俗に言う物欲センサーの立場も無くなってしまう。それは僕らとって、僕らの行動を全て抑制し従順にさせるほどに不可能なことなのだ。だからこそ苦悩は生まれ、それを克己した時の喜びも増すというもの。
そんなことをふと考えながら今日もぶひどうのいちゃラブもので抜く。
やはりいちゃラブは良いものだ───そうしみじみと感じる。
寝取られは好まない。僕は平和主義だ。出来るだけ多くの人の幸せになるのが良いのだ。
それなのに催眠ものも好きだ。何故だか分からないがよく抜ける。
特にロリ催眠などという明らかに現実であれば有り得ない、違法なものが良いのだ。
これもまた思い通りにならない世界への羨望なのかもしれない。
ゴッホVS楊貴妃
艶やかな細い腕、怯えたようで切なさを孕んだ視線、頼りない向日葵の花…
そしてなにより魅力的なのが第三再臨における圧倒的な絶対空域。そんな新サーヴァント、ゴッホのピックアップが始まった。
私はつい先刻まで何も考えないでいた自分を恥じた。こんな、これほどの、こんなキャラが出るなんて知っていたならば、石の無駄遣いなどするはずが無かったのに。
とはいえ楊貴妃もまた捨てがたいのは自明の理。FGO絵師界隈という蠱毒の中にいながら一際輝く天賦の才を持つ絵師・黒星紅白が担当すると言うだけでも石100個を優に超える価値があるというのに、そこに付与された艶美な声、性格共に100点中200000000点だ。
やはり問題は私の根底にある、「星5なら誰でもいい」という道徳心の欠落したであろう倫理観に基づくのだ。
近頃魅力的だと感じるサーヴァントのピックアップがなかなか無かった。卑弥呼も悪くは無いがどうにも刺さらない。アストルフォも良いには良いのだが、私は男では抜けぬ。どれほど可愛かろうと、どれほどボーイッシュであろうと、そこにちんこがあれば抜けないしちんこが無ければ抜ける。いやそれは言い過ぎだ。人間の頭よりもでかい乳を描く奴は許さない。
別にアストルフォで抜ける人達をバカにするとか、そういうことでは断じてない。ただの私の好みの話だ。
だかしかし、そんな風におざなりな気持ちを持った鯖でさえ石があれば引きたいと思ってしまうのだ。愚かにも石を消費していくのだ。こんな生来の浮気性であるからきっとこれからも苦労が絶えないのだろう。
話が逸れた。つまり石がないのだ。意思もないが。
まあゴッホの見た目がただ良いだけなら僕は迷わずに楊貴妃を引いていた。しかし困ったことに、奴は声も性格も楊貴妃同様に素晴らしいのだ。刺さる。刺された。刺されたい。
とりあえず石でもついでに集めようとイベントを始めた矢先、ゴッホたんはなんとイベントの交換所にいた。
な、なんと素晴らしいデザインか…!
そしてその声のなんと素晴らしいことか…!!
言いたい…。散々爆死宣言をしておいてその上でゴッホちゃんを引いて「ゴッホジョ~~~~ク」って言いたい…。それで自慢して相手に殺意を抱かせたい…。それほどまでにうざく自慢したい。ゴッホちゃんを引いたことを誇りたい。
でも弊カルデアにもはや一片の聖晶片すら存在しないので、今は大人しく石をかき集めることとする。
一体どうすればいいんだ…